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西岸寺について書かれている書物と講演


『親鸞』末木文美士著 ミネルヴァ書房

『親鸞再考』松尾剛次著  NHK BOOKS

 

『知られざる親鸞』松尾剛次著 平凡社新書

 

『芸術新潮』「「梅原猛が解き明かす 親鸞の謎」 梅原猛著 

 

『親鸞「四つの謎を」解く』 梅原猛著  新潮社


『親鸞始記』 佐々木正著 筑摩書房


『親鸞は源頼朝の甥=親鸞先妻・玉日実在説』 西山深草著 白馬社


親鸞聖人京都の御旧跡誌―正聚房僧純記『高祖聖人皇都霊跡志』(現代語訳)  菊藤明道著  探究者






玉日姫御廟所発掘記念講演  

京都西岸寺玉日姫御廟所の発掘とその意義 玉日姫は実在した?  山形大学 松尾剛次教授

この度、京都市埋蔵文化財研究所により、親鸞聖人750回大遠忌に関連した西岸寺玉日姫御廟所の修復に伴って四月四日から一三日まで発掘を行われた。その結果、寺伝では玉日姫(寺伝では、元暦二<一一八五>年三月一八日―承元三<一二〇九>年九月一八日)の墓とされるところから、骨壺に転用された火消し壺と火葬骨が発見された。

 四月に発掘し、パリノ・サーヴェイ株式会社大阪支社(大阪市)に骨の検査を依頼した。その結果は 「頭蓋骨の破片が多く見られる」こと、「性別・年齢については、あまりにも小破片であったために特定することができなかった」でした。すなわち残念なことに、性別・年齢がわからないという。また、カーボン14による年代鑑定も試みたが、火葬骨であるため、有機物が少なすぎて判明できなかった。それゆえ、発掘の成果は何かを決定つけるものではない。しかし、以下に述べるような理由から、その墓自体は玉日姫の墓であると考えられる。

 玉日姫は、中世以来、大正十(一九二一)年の「恵信尼文書」の発見以前まで、 九条兼実の娘で、親鸞の正妻として知られていた。そのことは、本願寺も認めていて蓮如の息子である実悟の作成した「日野一流系図」(資料1)にも記されている。京都伏見西岸寺は、兼実の父忠通の法性寺小御堂の跡で、玉日姫の御廟所を守る寺院として、江戸時代には多くの参詣者を集めた。

 ところが、近代の一夫一婦制下で、親鸞の妻は恵信尼とされ、他方、正妻の玉日姫は、『玉葉』など確実な史料に見えないことから、実在を否定された。戦後のマルクス主義歴史学においても、民衆の救済者である親鸞と貴族の娘との結婚はイメージにあわないと考えられ、その事実は否定された。その結果、西岸寺の御廟所も忘れられてしまった。しかしながら、結論をいえば、今回の墓所の発掘によって、玉日姫の実在の確実性は高まったと考える。

 西岸寺玉日姫御廟所は、真光寺文書(資料2)や石碑銘文(資料3)から、嘉永五(一八五二)年三月に大規模な改葬がなされ、修復が完了されていたことは明らかである。すなわち、今回の発掘成果は、そうした古文書や石碑銘文の内容に合致する。それゆえ、本発掘により、そうした江戸時代の古文書の内容などが裏付けられたことになる。

 資料2は、嘉永四(一八五一)年(カ)の十一月十六日に西岸寺僧(第二〇代見龍カ)が真光寺に宛てて出した書状である。真光寺は広島県呉市にある寺で、西岸寺第一八代目住職覚円が真光寺から来たために西岸寺と関係が深かった。

それによれば、嘉永五(一八五二)年三月の大修復は、嘉永二(一八四九)年四月十六日に九条家の五人が西岸寺を訪問したことに始まる。すなわち、大御所様(九条尚忠)、若御所様(幸経)、御裏様(幸経の妻、?子あつこ)、若君様二人(道孝と尚嘉)の五人が西岸寺にやって来て種々の拝領物があった。その際に、玉日姫の御廟所が荒廃しているのを見たのであろう。さらに閏四月五日にも九条氏が再度西岸寺にやってきた。その際、「玉日御廟の修復すべきや否か」のお尋ねがあり、西岸寺住職が修復を願ったところ、勧進(寄付)の手始めとして白銀五〇枚(金三五両くらい)が下された上に趣意書まで書いてくださった。

さらに、翌嘉永三年正月には、門跡(徳如)にも勧進帳を見せたところ同意されて銀を下された。嘉永四年三月には九条氏がまた訪問し、四月には本願寺第二十代門主(広如)も来臨し、御帰宅後直ちに呼び出されて大阪での勧進も許可されたという。なお、門跡徳如は九条尚忠の猶子であったし、広如の妻も尚忠の猶子であった(「広如上人芳績考」)。すなわち、当時の西本願寺は九条家と親戚関係にあった。

 九条家は、九条兼実を初祖とする。兼実の娘である玉日姫の墓が荒れていたのに心をいため、その修復に協力を惜しまなかったのであろう。ようするに、鎌倉時代以来(玉日は承元三<一二〇九>年に死去)の墓がいたみ、その修復が九条家、門跡、西本願寺広如門主の協力のもと大阪での勧進(寄付を募ること) までしてなされたことがわかる。

 とすれば、幕末においても九条家や西本願寺が玉日姫の御廟所と認めていて、鎌倉時代以来の墓を改葬したとするのが自然と考える。もっとも、今回の骨の鑑定では性別・年代は不明であったので、後日の分析の発展を期して、一部の骨を冷蔵して保存することにしている。

 以上のような理由から、少なくとも玉日姫の墓が実在したとなると、玉日姫の存在も可能性が高くなる。さらに、従来、玉日との結婚の記事を載せることなどを理由に顧みられなかった多くの史料が、逆に、その価値を増すことになる。その研究は、今後の課題である。

 ところで、親鸞は京都では五条西洞院を主な住所としたことは、本願寺覚如が作成した『親鸞聖人伝絵』でも認めている。親鸞と玉日との結婚を記す最も古い史料である『親鸞聖人御因縁』(鎌倉末期の資料)などでは、玉日と結婚して五条西洞院に住んだとなっており、そこは玉日関係の屋敷だったからこそ住んだことがわかる。

 また、無視されてきた玉日との子である範意系の史料も活かすことができ、種々のなぞを解くことができる。



資料1






資料2

(前略)扨拙寺此度格別時節到来ニ相成、先々年ヨリ兼々願心ニ御座候、玉日君様御廟修復之儀、今般思召ヲ以、弥々成就ニ相成候、此段御同慶可被下候、右一条、左ニ相記御覽ニ入候間御門徒中エモ御披露可被下候、

一、去ル酉年(嘉永二<一八四九>年カ)四月十六日、

九條御所様俄ニ当寺エ御成ニ相成、尤大御所様(九条尚忠)、若御所様(幸経)、御裏様(幸経の妻、?子)、若君様(道孝、尚嘉)御双方都合五方御成被為有、種々拝領物有之、奉頂戴候、其後再度(嘉永二年)閏四月五日、 御成被為有、玉日君様御廟修復可致哉、御尋を蒙り奉恐入候、仍之何卒御修復致度段、奉言上候処、先御帳面始ニして白銀五拾枚被為下置、尚 御直命之御趣意書御下候ト相成難有奉頂戴、直ニ去ル戌年(一八五〇)正月三日御門跡様江奉御高覧入之処、格別御満足ニ被為思召則御廟修復為助成御門跡様ヨリモ御銀御寄附被為成分難有奉頂戴、追々御普請ニ取懸り居候処、去ル(一八五一年カ)三月廿七日又々、九條様被為有御成引続き四月朔日御門主様(広如)被為有御成如先例御廟御拝礼御焼香、被為有御還御後早々拙僧御喚出之諸国勧化之義、御免相成即去七月より、大阪表勧進之儀、御連署御達ニ相成此節最中当所廻寺仕候、右之次第前代未聞不可思議之御時節到来と奉恐悦先今日迄無難に御用相勤居申候誠に御一統に御流を奉汲御門葉者不及申御門徒末々迄実に可感載訳柄故一統大悦御取持に預り候依之早速、御当寺エモ右之條々為御知申度存候得共、何角与御用向繁多ニ付乍延引今般愚断を以得尊意候、夫ニ付 御廟御絵図并寄進帳共差上候間一入御助成ニ相成候様、御心配被下御門徒中者不及申、夫々御披露被下御修復御手伝之儀、厚御願申入候、御直命御趣意書并ニ拝領之品等者、御上京之砌り御拝見可被下候、先右之段、御願旁為御知申上候已上

        大阪ニ而

  霜月十六日 西岸寺

  真光寺様

資料3      石碑銘文「 嘉永五年三月 願主 御修復講」



資料4
西岸寺住職次第
 
 名前   没年                       参考
1 有阿弥  文永 6年(1269年)8月22日        俗名田村采女正光隆・行年93歳
2 祐応   正安 2年(1300年)3月6日 行年61歳
3 祐順   文和 3年(1354年)9月8日 行年62歳
4 祐西   正長 元年(1428年)2月11日 行年80歳
5 祐義   宝徳 2年(1450年)5月4日 行年43歳
6 祐玄   文明18年(1486年)霜月29日 行年58歳
7 祐誓   天正5年(1577年)正月2日 行年98歳
8 祐浄   慶長2年(1597年)7月7日 行年53歳、此時  東本願寺ト成
9 義慶   寛永6年(1629年)3月11日 行年56歳
10 義道  明暦2年(1656年)正月25日 行年53歳
11 祐諦  天和2年(1682年)6月13日 行年67歳
12 義空  宝永4年(1707年)2月5日 行年48歳、此代  本堂建立
13 西順  享保16年(1731年)10月26日 行年81歳
14 知順  安永2年(1773年)8月20日 行年64歳
15 快應  安永7年(1778年)8月26日   行年26歳
16 義順  安永8年(1779年)8月22日 行年31歳
17 義諦                            本堂再建ノ後退寺
18 覺圓  寛政11年(1799年)10月18日 行年50才  藝州加茂郡川尻真光寺舎弟、實ハ同寺門徒治郎兵ヱ事也
19 實情院龍田法師  文政3年庚辰(1820年)5月8日     寛政11年(1799年)極月19日入寺、行歳35、                                       文如上人様之内命ニヨリテ、行年56歳 
20 見龍   文政3年庚辰(1820年)5月、継職、行年21   前住之働ニ仍テ拙僧江永代国絹袈裟並列座御免 



発掘写真(2012年4月10日)



 火消し壺を転用した骨蔵器



 玉日姫の骨







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